石塚幸雄 M.D.

日本での幼少青年時代
慶応大学医学部卒業後ハーバード大学で精神科の訓練を受ける
パリでのコレット夫人との巡り合い
美術(絵画)への傾倒
精神医学,McKinsey経営コンサルタント,企業の合併買収活動
精神医学への復帰27年と新しい精神的適応のモデル開発


日本での幼小青年期


ドクター石塚は1938年6月14日に北海道、函館市でうまれ,米軍占領下の 日本で少年期を過ごしました。終戦後の当時の日本は劇的な変化の最中 で、東洋日本の伝統と西欧米国の影響がぶつかりあう激動の時代でした。

少年時代の彼に最も大きな影響を与えたのは彼の父がアインシュタインの新しい物理学を始めて日本に紹介した学者として尊敬していた物理学者石原純が子供の為に書いた本「世界の謎」でした。特に彼に強い印象を与えたのは、少年時代に読んだホーマーの伝説物語の夢を追って青年期に15ヶ国語を学び、世界を一周し、ビジネスマンとして成功した富を投入して遂にエーゲ海文明を発掘したドイツの素人考古学者ハインリッヒシュリーマンの物話でした。

第二次大戦終了直後,陸軍士官候補生として満州で飛行訓練中だった彼の長兄は辛うじてロシア軍の捕虜になる事を逃れて帰国して医学校に入学、次兄は薬理学部に進学しました。既に薬理学部在学中だった姉は東京の空襲で学校が破壊された為止む無く帰郷し結婚しました。

幼少年期の彼は才能あるコマーシャルアーテイストで独学の発明家でもあった父親から創造性, 探究心、独立心を植え付けられ、好奇心に富み勤勉で正直な母親からの愛と薫陶のもとに成長し,末っ子として両親と十歳以上年上の兄二人と姉からの愛情を享有しました。高校時代の彼は,兄姉達や従兄弟達の残した輝かしい学業受験成績の重課の下で苦闘しました。明らかに文科系科目に優れていた彼に対し、父親は医学部進学を強く勧め, 彼は入学願書提出の締め切りの前日に法学部経済学部への願書を破棄して医学部二校のみに受験しました。医学部受験の準備の出来ていなかった彼は東京駿河台の予備校で浪人一年後, 慶応大学医学部に辛うじて合格しました。

慶応大学医学部卒業後ハーバード大学で精神科の訓練を受ける

医学部進学過程2年間彼はハインリッヒ、シュリーマンの語学学習法等を基に英語を独習し国際的学生交換を目的とした学生組織で活躍しました。その結果1960年に米国国務省が後援してハワイ大学で開かれた「アジア,アフリカ学生指導者会議」に日本大学生主席代表として選ばれ30カ国からの32人の学生代表達に混じって出席しました。この学生会議が医学部進学の為の最終試験の最中に行われた為, 彼は帰国後核科学教科目の試験を受けることを条件に補欠進学となり、語学、人文、文科系の全学科の試験を免除されました. 30年後に、彼は慶応医学部の教授会が開校以来の学則を改定して、彼の医学部進学を可能にしたことを知らされました。

学生会議出席の経験に刺激され、1961年医学部2年生の彼はイスラエルで開かれた国際医学生連盟 (IFMSA)総会に日本代表として出席し理事国に当選し、日本の医学生の国際的活動を促進する為全国医学部に呼びかけ「日本国際医学生連盟」(JIMSA)を創設しました。この過程で、当時日本医師会会長武見太郎先生の暖かい支援を受けました。因みに、武見先生は優れた臨床家であるのみならず、核物理学者でもあり、広島の原爆被爆直後の視察を行い、天皇の日本降伏の決断を促進した事でも知られています。

慶応大学医学部卒業後、彼が米国留学の挨拶に武見先生を訪れた際、先生独特の単刀直入な表現で、「君は日本に帰ってくるな」と言われた時彼はその衝撃から立ち直ると共に、自分が日本を離れて自由に将来を切り開くことを許されたと了解しました。

1965年、彼はフィラデルフィアのジェファソン医科大学病院(Jefferson Medical College Hospital)でのインターンとして渡米しました。既に立川米空軍基地病院でインターンを終了し、医師免許証を得ていた彼は、更にもう一年インターンをくり返す過程で、自分が内科、外科等の他の専門分野に更に興味を持たないか、又精神医学を選ぶ場合も、幾つかの可能な選択のなかから積極的に精神医学を選択しようとした為でした. ジェファソンでの一年間のインターンの間に彼は内科、外科を含む4科からレジデンシィ(専門医訓練)のオファーを受け、確信を持って精神科を選択しました。

ジェファソンでのインターンが始まる前に、彼はボストンを訪ね、丸一日に及ぶ面接の後、当時ハーバード大学精神科の主任、ジャック.イワルト教授(Prof. Jack R. Ewalt)からレジデントとして採用されました.後日彼はその年の25名の採用者中最初の採用であった事を聞かされました。第一志望のMassachusetts Mental Health Center での採用に気を良くした石塚は、なけなしの貯金を投入して2週間の往復割引航空券を手に入れ、初めてのヨーロッパへ出かけました。

パリでのコレット夫人との巡り合い

この旅行中、ロンドンで会った予備校以来の旧友寺田輝介(元メキシコ、現韓国大使)の当時婚約者マリフランス トウレ(Marie-France Tourlet )の紹介で、パリでコレット (Colette)に出会うことになります。彼女は数ヵ月後に 彼の後を追ってフィラデルフィアに渡り、アメリカでの最初の親しい友人となったネビヤス夫妻宅(Drs. Herbert and Joan Nevyas) に滞在しました。彼はコレットの豊かで自由な感情表現力、そしてキリスト教の信仰に支えられた良識ある判断行動力に強い印象を受けました.何よりも彼を惹きつけたのは、コレットが稀なほど「与える」能力と「受ける」能力の両方を持っていることでした。彼は例外的なgiverのコレットから「受ける」事を学び、優れたreceiver である彼女によって「与える」事を学びました.コレットの彼に対する強いコミットメントが彼の「近ずく事に対する恐怖」(fear of closeness)を克服する事を可能にしました。更に、彼はコレットのフランスの両親が彼を我が子のように温かく迎えてくれたことにも感動しました.二人は幸せな結婚を続けて35年、子供三人に恵まれています。

美術(絵画)への傾倒

忙しいインターン生活のなかに潤いを求め彼は無料でフィラデルフィアの一流の画家の指導を受けられる夜学画学校Fleisher Art Memorial に通いました.週三日午後7:30から深刻まで彼は我を忘れて画家達に囲まれてすごし、教師達から画家の道を選ぶ事を勧めれます。その後多忙な医師として、又ビジネスの世界に入ってからも絵を描き続け1974年、米国最古のプロフェッショナルな画家のクラブSalmagundi Clubの会員に選ばれました。

精神医学, McKinsey経営コンサルタント, 企業の合併買収活動へ

ハーバードでの精神科レジデンシーの三年が終わった後、精神分析のエルヴィン セムラッド(Elvin Semrad) 教授と社会学のデービッド リースマン(David Riesman)教授から精神分析学の勉強を続けることを強く勧められ、彼は、ボストンの精神分析研究所又はメキシコのエリック フロム(Erich Fromm) のもとで精神分析を学ぶことを真剣に考えましたが、結局知的な自由と独立を守る為に精神分析学専攻を断念します。 レジデンシー三年目の選択活動(Elective)として、石塚は地域精神衛生を選び,その主任キャプラン教授(Caplan)とイワルト(Ewalt) 主任教授を説得して米国最古のシンクタンク、アーサーデイーリトル社(Arthur D. Little Inc.)の当時会長のギャビン将軍(General James Gavin:有名な落下傘降下部隊82師団の創設者)の好意で精神科レジデントとして始めて経営コンサルタントの道に入ります。一年間A.D.L.で組織活性化チームの一員としてトップ経営陣のチームワークや創造性の強化を目的としたクライエントプロジェクトに参加した後、1969年精神科レジデンシー終了と同時に,経営コンサルタントとして将来日本の企業が本格的に国際化するのを助けるキャリアーを夢見ました。

精神科レジデンシーの傍ら、彼はハーバードビジネススクールのポールローレンス(Paul Lawrence) 教授の好意で、組織行動学の教育プログラムに参加する機会を得ました.ここで、当時学生から敬愛されていたトニー エーソス(Tony Athos) 教授の知己を得、国際的経営コンサルタント会社、McKinsey & Co, に紹介されました。当時米国滞在Visaの延長の困難に直面していた矢先でも有り、彼はマッキンゼー社のオファーを受けて4年にわたり、パリ、アムステルダム、トロント、ニューヨークと国際企業の経営コンサルタントとして複雑な問題を先ず全体として捕らえ、企業の生存と繁栄の鍵となるキーファクターを洗い出しそれを明確な企業目的とプライオリテイーに従って追跡制御すると言う問題解決のアプローチを学びました。彼はマッキンゼー時代に、マッキンゼーを今日有らしめ経営コンサルタルテイングを職業として確立した伝説的コンサルタント,マービン バウアー(Marvin Bower)氏の知己を得、退社後30年に及び暖かい励ましを受け近年はポールローレンス教授と共に、出版計画中の1000頁に及ぶ著書の原稿を隈なく読んで下さりライフトラックの概念とその社会的な意義に対し強い励ましを頂きました。同じくマッキンゼー時代からの友人ピーター サザンコフスキー(元マッキンゼー社パートナー、後Chairman/C.E.O. at Remy & Associates )から現在に至るまで暖かい励ましと助言を頂きました。

1972年, 当時マッキンゼー社のクライエントだった、三菱商事から、米国企業買収を目的とした特殊会社の創設の依頼を受け、彼はマッキンゼーを去り、Delta Transnational 社のCo-founder として転出します.当時米国三菱副社長だった苫米地俊弘氏にはその後現在に至るまで暖かい好意と支援を頂きました。Delta Transnational 社の社長として企業買収活動4年目,  彼は国際企業社長の某友人から鬱の治療を強く依頼されました。その精神療法の劇的な成功が刺激となり,当時不況で停滞していた企業買収活動を去り,1976年再び精神医学に戻る決心をします。

精神医学への復帰27年と新しい精神的適応のモデル開発

ドクター石塚は新しい疑問を持って精神医学に戻ります.治療目的は何か? 精神的健康とはなにか? 治療効果を如何に計測追跡するか? 経営コンサルタントとして身につけた分析的問題解決法,東洋の禅の概念,西洋の科学量子力学の概念、等を統合して新しい「計量可能な精神的健康のモデル」を開発し,それに基ずいたライフトラック療法(Lifetrack Therapy)を過去27年に渡り2000人を超える全ての患者治療の場でテストしました.その結果、この治療法によって患者が色々な症状から急速に回復するのみならず,過去最高の適応水準を越えて成長する事を発見しました。


  




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